人生100年時代のホリスティックライフプラン
こんにちは。
高畑吉宏です。
本稿は前稿の続きです。
日本人が「仁、義、礼、智、信」に基づいた生活習慣を亡くしてきている原因は何でしょうか?
幾つかの原因がありますが、その原因の1つは、「知育・徳育・体育」のバランスと歪みにあると思うのです。
一般に理解されていることから言うと、「知育」とは知識を豊かにし、知能を高めるための教育とされています。
「徳育」とは人格や道徳心を養い育てる教育とされ、「体育とは健全なからだをつくる教育」とされています。
知識重視にウエートがおかれると、記憶力、推理力、知的判断力、論理的理解等に長けた生徒が優秀な成績をものにすることができます。
体育に至っては、果たして学校の体育の時間で体力が付くものなのでしょうか。
余談ですが、鈍足で運動神経の鈍い私には、多くの人や家族族が楽しみにしている運動会は、まるで悪夢見る思いでした。
さて人格や道徳心を養い育てる教育とされる徳育となると、果たしてどうなのでしょうか?
人格というと、道徳めいてとらえられる人も多いと思います。また「人格者」、「篤農家」といった単語も古めいたニュアンスとしてとらえる人もいらっしゃるでしょう。
長く企業の人創りの研修を続けている私は(研修)教育の到達目標、学びの目標を以下の3つに分けて捉えています
- 知ること=理解する。分かること。
- できるようになる(=スキルの習得)
- 変わること(=態度変容、態度形成)
道徳教育の到達目標は、本来このうち③に入るべきものではないでしょうか?
再確認ですが、人格(=パーソナリティ形成)や道徳心を養い育てる教育とされる道徳教育を学校に任せていいものでしょうか?
ここで問われることは、家庭の教育力なのです。
ここで、前々稿、前稿で述べたコンテンツのまとめに入ります。
前々稿で述べたことを繰り返します。
「道理百遍、義理一遍」という慣用句を繰り返します。
その意味は、ものの道理を百回聞かせるよりも、たった一度、義理を尽くした行いを見せるほうが、人の心を動かすことができるということでした。
実は、昭和の20年代、30年代までには、これらを容易にする時代背景がありました。
一例を挙げると
東京の幾つかの事業主は、福島県の会津のとある村の出身の若者を採用し続けました。
その理由は、その村の出身者は、我慢強くて、正直者で、多少の困難は乗り越えられる人物である、というのがその理由でした。
貧しさの中で、厳寒の中、積雪の多い風土環境で育てられた性格形成が出来ている人材に信頼をおいていたのです。
翻って現代に話を向けてみると、
少子化で、近隣で子供たちの遊ぶ姿は都会でもまずお目にかかりません。
欧米人のように、日曜日に教会に行く生活規範もありません。(現状は少し変わってきているようです)
社会人基礎力が今問われいることは、これらのことと無縁ではありません。
蛇足ですが、
年長者を敬う風習も色あせてきているようです。「敬老の日」には特番が放映されますが、その日以外はまるで「軽老の日」と化してもいます。
しかし、これから人生100時代を迎えるに当たって、これまで述べてきた日本の現状、教育の現状は、グローバルな視座からは決してプラスにはならないようです。
前々稿と前稿そして本稿は、その布石・基盤として述べました。
次稿からは、人生100時代の私たちの生き方をシェアしていきたいと思います。
「人の助けになろうすることほど、自らの成長になることはない」(有名な経営学者/ドラッカー)
最後までお読み頂き、ありがとうございました。