母との永遠(とわ)の別れ
こんにちは。
高畑吉宏です。
1.ごあいさつ
昨年末からお休みをさせて頂きました。大変お久しぶりです。この間、スタッフと所属講師の年末調整、そして確定申告、決算書作成・報告といった苦手な作業が重なりました。
加えて、利き手の小指を、前方、不注意でガードレールにぶっつけてしまい、小指を骨折。キーボードを打てなくなってしまい、思い切ってプログに配信を中断しておりました。
よき休養となりました。
次回から本格的に再始動したいと思っております。
ブログの基本姿勢は、変わりは、全くありません。基本姿勢は前回の記事は以下をクリックしてください。https://yosihirokun.hatenablog.com/?_ga=2.171067232.132526392.1591304528-2063161845.15811544
2.母との永遠(とわ)の別れ
この前の日曜日。
母の死を知らされました。
母は昨年3月から療養生活に入り、寝込んでいました。寝たきりになりました。気丈夫な母は、頭はしっかりしており、週1回の面接では、妹のlineで私にも語り掛けてもいました。
コロナ禍のせいも加わり県外からの面接は、一切不可能でした。
そして今年の1月から3月までは、コロナのため「完全に面接禁止」となりました。
そして今月4月に新年度体制となり、毎週木曜日1日のみ面接が1人15分間だけ可能という範囲で面接が許されました。
妹が2回ばかり出向いてくれました。1回目は会話ができなくなっていましたが、別れ際に妹の手を強く握りしめたそうです。
ゆえに突然とは言え、覚悟はできていました。
そして4月11日。
母は永眠しました。
享年93歳。
3.葬儀の日
早くも翌日の12日は、葬儀が(兄貴たち夫婦)の段取りで執り行われることになっていて、11日に私は埼玉から広島に移動。
我が家から現地のホテルまでドアツードアで7.5時間くらい掛かりました。寝つきが悪く、自分の体調にやや不安も……。
そして翌日。
妹夫婦がホテルに迎えに来てくれ、自動車で10分くらい、会館に到着。そこで初めて母のご遺体に接しました。
昭和の貧しい時代を生き抜いた、小さな星がまた一つ消えました…。
御棺の母の顔が、それはそれは、とても清からで、安心と同時に涙腺が緩み放っぱなしです。
親族の控え室に案内されたものの、全員マスクマン(ウーマン)状態で、なおかつ数10年にわたる長い間、お会いしていないため、人物の識別も難しい状態…。
浦島太郎の状態です。
私は、「親族の控え室」を離れ、母の元へ。
なるべく母に語り掛けるよう、在りし日をしのび、清らかになった母に語り掛ける時間を多くとりました。
父亡き後は母は、私のみならず「与える人」でした。恥ずかしながら小遣いを頂いたり、多くの励ましの言葉を頂たりしました。感謝感激あるのみです。
4.告別式
告別式は翌日。
出棺の折には、兄貴が霊柩車の前に乗り、私、弟は、後部席の母の棺のところに座しました。
この間、終始私は無言。右手を棺のほうに当て、母との会話をしておりました。
後々、ブログでも触れたと思いますが、ムーディーズやキュプラ・ロス博士の臨死体験の報告等々、POP心理学、トランスパーソナル心理学をホリスティック的に学んでいる一学徒として、亡骸の火葬は、さほど悲しくはありませんでした。正直なところ…。
告別式は10:00から始まり、15:00位で終えました。
最後にパプニングが起きました。
仕切り屋の兄貴が腰痛をおこし、急きょ、私が参会者に御礼の言葉を述べるよう、何と直前に耳打ちするではないか。
ある英国の(?)著名人が「3時間なら話せるが、3分間のスピーチはできない」という台詞を遺していますが、まさにその心境でした。
5.まとめ
地方を離れ、大都会圏でサラリーマン生活をし、実家の長男に両親や曾祖父母のケアを委ねていらっしゃる方も多いのではないでしょうか?
実家の兄弟や義理の姉・妹たちと円満であれば、交流がスムースでしょうが、そうでない場合、老後の親のケアや看取りは、骨肉の争いともなるようです。
ましてコロナ禍では、思い通りにいかないことも、多い昨今です。
できえれば、今の時代、ZOOMやlineのビデオ通信などで日頃のコミュニケーションを心がけたいものですネ。
もう一つは、できる限りパイプを多く持つことですネ。
※私の場合、妹(と義理の兄)が甲斐甲斐しく、その役目を果たしてくれました。妹には感謝感激しております。
私事に最後まで読み頂き、ありがとうございました。