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こんにちは(こんばんは)
私たちの人生には限りがあます。やがて”死”を迎えなくてはなりません。
私たちが子どもの頃は、死というものは地域で対応していました。
私の体験で一番印象に残っているのは、曾祖父の死でした。曾祖父が亡くなった折には、地域全体で対応し、実に多くの方々が、今で言う斎場まで行列ができていました。
それが、今では「死の個人化」と言われる時代になりました。
その現実として、「おひとり様」や「孤独死」という言葉が、現実感を持ち、自分の死については、自分で考えなければいけない時代がやってきました。
現代のように子供1人または子供がいない夫婦や、未婚者が珍しくない時代には、子供の世代へ大きな負担はかけられないのも現実。
かつまた、地域社会での人間関係も希薄になっており、社会現象として“終活”が広がっているのが現実。
「自助・共助・公助」と言われますが、いうまでもなく、自助とは、自分の力で何とか、経済的・身体的・社会的に自立してゆける状態にあることですね。
共助とは、地域社会でお互いが支えられる環境にあること、ですね。
社会の構成単位で一番、小さな構成は家族ですが、次は”地域“ですね。
感覚的に分かりやすく言えば、「回覧板」が回ってくるコミュニティですね。
少しの例外を除くと、このコミュニティ共同体は、都会でも郡部でも、ほとんど機能していません。
現実、私自身、私が今住んでいるのは埼玉県の市内ですが、お顔と名前が一致するのは、同じ番地の両隣りのみであり、その両隣りの方が、どんな職業で、どんな悩みや、生きがいがあるのかは、まったく分かりません。
「終活」は、このような現状の中で、自分のエンディングを自分でデザインすることとなるのです。
早い人は50歳頃から、準備をされるようですが、50歳をとっくに越えている私には、まったくその準備が出来ていないといってもいいです(汗)。
お墓を用意するにしても、現代では、「お墓じまい業」が盛んになっていますね。
この背景には、お墓を守る人の高齢化やお墓が遠い、子どもに託せない、などがその背景にあるようです。
さて、これらの背景もさることながら、もう一つの大前提として、ホリスティックな視野・スピリルチュアルな視座から言えば、”死“そのものをどうとらえるかが大切なポイントであり、その基本の設定(デザイン)となります。
すなわち、死後の世界はあるのかどうかということへの絶対的な確信が欲しいのです。
その前提いかんによって、次の行動プロセスが大きく変わるはずです。